キュリー夫人
概要
ラジウムの発見で夫のビエールとともにノーベル物理学賞に輝いたマリー・キュリーは、夫の死後、金属ラジウムの分離に成功し、11年には化学賞を受けた。
ノーベル賞を二度受けた女性は、彼女だけだ。無造作にひっつめた髪、質素な黒い服、鋭いまなざし−−。教科書や伝記を通じ、「冷厳な女性科学者」のイメージが定着した。
しかし現実の彼女は、熱烈な恋も知る女性だった。パリでは、恋愛事件をめぐって決闘騒ぎまで起きている。
本文
一九一一年十一月二十六日朝、パリ・バンセンヌの森。霧がこめる木立の中で二人の紳士がピストルを手ににらみあっている。一人は著名な物理学者のポール・ランジュバン博士。一人は週刊誌記者のギユスターブ・テリー。立会人が「一、二、三…」と数え始めた。
「撃て!」
その瞬間、テリーは銃を下してしまった。「おれには人殺しはできない」ランジュバン博士も銃を下した。決闘は未遂に終わった。ランジュバン博士は五年前に死んだピエール・キュリーの弟子で世界的に名を知られた科学者だった。その博士が、恩師の妻でノーベ一賞学者のキュリー夫人と恋愛関係にあることを、テリーが二人の手紙付で興味本位に報じた。怒った博士が決闘を申し入けたのだった。マリー・キュリーは当時、博士より五つ上の四十四歳。ソルボンヌ大学初の女性教授だった。マリーの孫、エレーヌ・ランジュパン・ジョリオさん(71)は「二人の関係はあったんだと思いますよ」といって笑った。「でも、マリーが妻子ある男を家庭から奪ったとか,そういうことでははなかったと思います」
夫ピエールが死んで五年がたっていた。ランジュバン薄士は夫婦仲が悪く、家庭は崩壊状態だった。
「マリーは博士に同情し、親密になっていった。博士はマリーに母性的なものを求めていたようです」
しかし、一世紀近くも昔のことだ。世間はそれを不道徳とみた。とくに、ポーランド出身のマリーに非難が集中する。外国人排斥を叫ぶ右翼の政冶的な動きもあった。マリーはストレスで胃や腎臓を悪くし、手術をしたほどだ。二度目のノーベル賞を受賞する直前だった。
関係者は心配し、受賞を遅らせらどうかと打診した。しかし、マリーはきっぱりという。「私の科学的な業績と私生活はまったく別次元のことです」
孫のエレーヌさんも物理学者だ。パリ郊外のオルセー原子核研究所で特別研究部長を務める。十五年前に死んだ夫ミシェ一ルさんも物理学者で、決闘事件のランジュバン博士の孫だった。
「私は結婚するまで、そのことを知りませんでした」とエレーヌさんは笑った。
パリ・カルチェラタンの一角に、赤れんがの古い建物がある「パリ市立物理化学学校」の真ちゅうのプレート。マリーとピエールはここでラジウムを発見した。
ジャック・ルビネール副学長(52)が構内を案内してくれた。夫妻が使った精密な電気計算機やフラスコなどがきちんと保存されていた。
副学長は「もう一つ、歴史的な場所があります」と隣の建物に入っていった。通路に面した角部屋で、学校の理科室ほどある。大きな机がいくつも置かれ、実験器具がびっしり並んでいる。ランジュバン博士の研究室だった部屋だという。博士はピエールの後任としてここで教えていた。
「二人はこの部屋で愛を語ったはずです。この辺りは窓が多くて人目につくから、多分あの奥の方だったのでしょう」
ポーランドの首都ワルシャワで、中学校の物理教師の末娘として生まれた。母規は、マリーが十歳のときに結核で死んでいる。
当時のポーランドはロシア、ドイツ、オーストリアに分割支配されていた。母国語は禁止され、マリーはロシア語で授業を受けた。成績はつねに一番。パリに留学するのが夢だった。
家は貧しい。留学実現のために方策を懸命に考えた。当時パリで医者の勉強をしたがっていた三歳上の姉ブローニャに提案する。「お姉さんが先にパリに行く。私はその間、ここに残って家庭教師をし、学資を送金します。お姉さんが医者になったら、今度は私の面倒をみてください」
マリーは約束通り、六年にわたって家庭教師を続け、姉の生活をささえた。
ワルシャワの生家はいま「キュリー博物館」になっている。館長は、マルゴルザタ・マルチニャクさん(35)という女性だ。彼女はマリーの写真を示していった。
「丸々としてふくよかでしょ。禁欲主義の冷厳な科学者というのは、後でつくられたイメージだと思いますよ。もともと明るくて活発で、合理的な女性だったんです」
北部シチューキのある金持ちの家で家庭教師をしていた十八歳のとき、教え子の兄と熱烈な恋におち、結婚まで考える。しかし、相手の両親に「貧しいとは身分が違う」と反対された。
マリーは大きく傷ついた。直後にいとこにあで手紙で「これからは人にも事件にも押しつぶされないことを鉄則とします」と書いている。
二十三歳のとき、姉から連絡が入った。姉はパリで結婚し、夫婦で医院を開業したのだ。パリに出たマリーはソルボンヌ大学に入った。カルチェラタンの屋根裏部屋に住み、食事も唾眠も切り詰めて勉学に励む。二年後には物理学の学士試験に一番で合格した。
若い物理学者ピエール・キュリーと出会ったのはそのころだった。
二つめの恋が始まった。
二人は結婚を決意する。新婦二十七歳、新郎三十八歳。当時としては遅い結婚だった。
物理化学学校で放射線の研究を始めた夫妻は、ガラス製造に使うウラン塩を採取した後の廃鉱石に、ウラン以上に放射性が強い未知の元素が二つ存在することを発見した。一つにラジウムと名付けた。
学会を説得するためには、現物を示さなけれはならない。二人はラジウムの抽出に懸命になる。ポヘミアの鉱山から、廃鉱石を数トン単位で運び込んだ。
抽出作業が行われたのは、学校の中庭にあった解剖用の遺体安置室だった。今は取り壊されて残っていない。ルビネール副学長はいう。
「床は一応コンクリート、窓にはガラスがはまった建物ですが、本造建築でした。雨漏りがひどく、廃屋同然に捨で置かれていた。夏は温室なみ、冬は冷蔵庫でした」
ピエールは主に分析を、マリーは力仕事を担当した。直径一m近い大がまに、砕いた廃鉱石を入れて煮る。
一度に二+キロずつ処理した。マリーは汗だくになりながら、どろどろの溶液を鉄の棒でかきまわした。加えた酸などの刺激臭がだだよう。粉じんが部屋中に舞っていたが、換気扇もなかった。天気のいい日には、戸外に出て作業を続けた。
溶液を分別しては濃縮を繰り返す。重い容器を棚にしまい、取り出し、移動させる。タ方には口もきけぬぐらい疲れはてた。ぽっぢゃりしたマリーがどんどんやせていくのはこのころからだ。しかし、ルビネール副学長はいう。
「女が科学研究をするなど、好奇の目で見られていた時代です。しかしこの実験室ではだれにも邪魔されず、夫と自由な研究ができた。彼女にとつては聖域だったのです」
夫妻は最初、新元素の量は廃鉱石の重量の百分の一以下だと予測していた。それが百万分の一以下の間違いだと気付いたとき、あまりの過酷な作業にピエールは「もうやめよう」とさじを投げかけた。
だがマリーは「私たちの正しさを証明するまでやめません」と答える。徹底的にものごとをやり通すタイプだった。
目に見えないラジウムは、ゆっくりと、しかし着実に、夫妻の包囲綱に追い込まれていく。
予告から約四年後の一九〇ニ年初夏、二人は塩化ラジウム0.1gの抽出に成功した。この業績で夫妻は翌年、ノーペル物理学賞を受賞した。
マリーは「放射能」どいう言葉を初めて使用し、未知の世界の鍵を開けた。しかしその放射能が人体にどれほど害があるかについては関心を持たなかった。
ラジウムはウランの三百万倍も放射線が強い。ビエールばラジウムを自分の腕に張りつけ、ニカ月も治らないやげどができた、と報告している。だがそれほど気にはしていなかった。
二人は長年にわたって確実に被ばくしていた。疲労感や倦怠感、白内障に悩まされた。その原因が放射線のためとは思わなかった。
ビエールはノーベル賞から三年後一九○六年、パリで馬車にひかれて死んだ。マリーは三四年、骨髄性白血病で死んだ。六十七歳。長年の被ばくが原因だった。
夫妻の遺体は95年パリ郊外ソーにある墓地から、国家功労者をまつるパンテオンに移葬された。
フランス政府が調ぺたところ、二人の遺体から、人体にはないラジウム226が検出された。無害なレベルだが、骨一kあたり八nキュリーの放射能が計測されている。
マリーが放射線の研究に注いだ情熱のあかしのように、今との瞬間にも、微量の放射線がパリの中心部から放たれている。
放射線の歴史
19世紀から20世紀初頭にかけては、放射線について重要な発見が相次いだ。
1895年、レントゲンがx線を発見。96年にはベクレルがウランから放射線を発見した。
キュリー夫妻は性格がよく知られていなかった放射線の定量的研究に取り組み、98年に新元素ポロニウムとラジウムを発見。1902年,ラジウムの抽出に成功。放射能の概念を初めて明らかにした。
夫妻の業績を土台に、原子核や素粒子の研究が発展していく。ラザフォードは一九年、原子核を破壊する実験に成功。こうした成果は、核分裂連鎖反応の成功へとつながり、人類が核エネルギーを使うことに道を開いた。
坂井光夫・東大名誉教授は「今日の核物理学につながる扉のかぎ穴を発見したのがベクレルだとレたらそのかぎを開けたのはキュリー夫妻だった」と位置づけでいる。
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